第9回さばえ近松文学賞に応募した作品です。
本作は小道具から逆算しています。
「鯖江の眼鏡は壊れることで目を守る。壊れても修理できる」からテーマを導き出しています。
「壊れた関係はお互いの気持ちで修復できる」が本作のテーマです。
小道具はたた鯖江要素を出すだけでなく、テーマにも直結させているのが自分なりのこだわりです。
あとは逆算で物語を作っています。
前半で、主人公が彼氏の眼鏡を壊すシーンがあります。ここの文章は、実は官能小説の技法を使っています。目線の動き、感覚の動きと文章の流れを合わせる。そのことで、ストップモーションというか、文章の流れで主人公の感情を表すように工夫しています。
技術は何でも使ってみるタイプなので。
こんな感じで、具体的な技法を無料ニュースレターで紹介します。
次回は11/5発行です。
・基本的に月2回発行(5日、20日※こちらはバックナンバー)。
・新規登録の特典のアイデア発想のオリジナルシート(キーワード法、物語改造法)つき!
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『リペア』 齊藤 想
アスファルトは、すっかりと夜のとばりに溶け込んでいた。
ここは都心のオフィス街。帰社時間のピークは過ぎ、地下鉄の駅に向かう会社員たちの姿もまばらになっている。通り過ぎる車のライトとコンビニの灯りが、目に痛いほど輝いている。
紗英は、自ら繰り出した左下からのビンタが、ここまできれいに彼氏である和司の顔に入るとは思わなかった。
いつもなら和司は軽くかわす。けど、紗英の勢いが強かったのか、それとも和司によけるつもりがなかったのか、紗英のてのひらが和司の横顔にめり込む。
和司は幅広な黒縁メガネをかけている。
紗英の中指が、和司がかけている眼鏡のフレームと衝突する。硬質な中にも、しなやかさがある独特の感触。
そこからの景色は、まるでスローモーションのようだった。
和司のトレードマークである黒縁眼鏡が、顔から離れていく。眼鏡の部品が砕けたようにバラバラになる。レンズを支えるリムが空を舞い、少し遅れて耳にかけるテンプルが地面に落ちる。
紗英の全身から一斉に血の気が引く。壊してしまった。和司が亡父から成人式のお祝いでもらった、大切な眼鏡を。
いまさら時を戻せない。紗英は心の中で泣きながら、表情だけは強気を崩さずに、和司にいい放った。
「浮気をした和司が悪いのよ」
和司は、バラバラになった眼鏡の部品を拾い集めた。アスファルトの上を転がったせいか、細かい傷がついている。
大切なひとの大事なものを壊すことほど、悲しいことはない。心の底では、和司に謝りたい。それなのに、和司への口撃は止まらない。これは勢いなのか、つまらないプライドなのか。
和司は顔を上げた。その瞳には、微かに怒りの色が浮かんでいる。それでも、紗英は頭を下げることができない。
和司の声が荒くなる。
「だから何度も誤解だと言っているだろ。瑠璃は会社の上司だ」
「じゃあ、なんで携帯の登録が”瑠璃”なのよ。普通は名字か役職名でしょ」
「それは社用の携帯だからだ。うちは宝石商だろ。だから、社員の肩書代わりに宝石名がつけられている。たまたま自分の上司がラピスラズリ……つまり瑠璃だっただけだ。見てみろ。瑠璃以外にも珊瑚とか真珠とかいろいろ登録されているだろ」
「私が見たのは、和司の私用携帯だから。それに、昼夜関係なく履歴が残っているし」
「それは、おれがおっちょこちょいで、ちょくちょく社用の携帯を忘れるから、上司に強制的に私用携帯に登録させられたんだ。電話が頻繁なのは、たまたま大口の取り引きがあって、上司と頻繁に連絡を取り合う必要があったからだ」
「そんな言い訳、信じられるわけがない」
「信じてくれないなら、仕方がない」
和司が散らばっている眼鏡の部品を、ひとつひとつ丁寧にハンカチで包み込む。
本当は仲直りをしたい。誤解したことを謝りたい。部品を拾うのを手伝いたい。けど、紗英の口から出てくるのは、真逆の言葉ばかり。
早くこの場から逃げ出したかった。
「もう帰る。二度と連絡しないで。瑠璃さんと幸せに。じゃあね」
「おい、ちょっと待てよ」
「もういいの。長すぎる春の結末は、こうなると決まっているの」
紗英は踵を返すと、足早に地下鉄の駅へと急いだ。途中で和司が追いかけてくることを期待した。けど、だれも止めてくれない。迫ってくる足音もない。無関心な人々が、紗英の横を通り過ぎる。
自然と、沙英の両目から涙がこぼれ出た。
思い返せば、和司とは長いつきあいだった。知り合ったのは小学校時代。そのときは、単なるグループでの遊び仲間。中学高校へと同じ地元の公立学校に進み、学力が近かったためか大学まで同じ。
それでも和司とは友人のままだった。お互いに大学やバイト先で恋人を作り、別れを繰り返す。何かあるたびに、お互いに近況を交換し合った。
二人が交際しなかったのは、恋人となることで、長く続いていた友人関係が壊れるのが怖かったから。二人とも臆病だった。
友人から恋人に変わったのは、社会人8年目のときだ。転勤を重ねていくなかで、たまたまお互いの勤務先が東京となり、再会して昔話で盛り上がっているうちに、自然な流れで交際に発展した。
お互いに三十路に入った。恋人としての交際期間は短くとも、和司とは知り合ってから二十五年を超える。
それも、もう終わり。壊れたものは、二度と元には戻らない。知っていたはずなのに。だから慎重に交際することを避けてきたはずなのに。
紗英はホームに滑り込んできた地下鉄のシートに沈み込むと、まばらな通勤客の目を気にすることなく、ひとりで泣き続けた。
和司から連絡がきたのは一か月後だった。
会うのはこのまえ喧嘩したときと同じ場所、同じ時間。お互いの職場の中間点。
紗英が重い気持ちで待ち合わせ場所にいると、ほどなくして和司がやってきた。
「遅れてごめん。ちょっと上司から小言をくらってさあ」
「それは大変だったね」
この前のことがあるので、どうしても態度がよそよそしくなってしまう。
近づいてきた和司は、傷ひとつない真新しい黒縁メガネをかけていた。弁償すべきだろうか。眼鏡のことばかり考えていると、和司から話を継いだ。
「そういえば、紗英にうちの親父が鯖江市出身ということを話したことがあったけ」
「あ、聞いたことがあるかも」
「鯖江といえば眼鏡だろ。だから、親父は成人式のお祝いに鯖江産の眼鏡を贈ってくれたんだ。黒縁でダサいかなと思ったけど、長く使えば使うほどお前の顔にフィットすると親父が力説してきてさあ」
「それで、どうしたの」
「三十を越えたあたりで、親父の言いたいことが分かってきた。三十代になれば自分の顔に責任を持てというじゃない。つまり、親父はこの眼鏡に合う顔になれと、言いたかったんだ」
紗英は、和司の顔を正面から見ることができない。うつむきながら、つぶやく。
「そうだったの。けど、その大切な眼鏡を、私は壊してしまった」
和司は首を横に振った。
「それは違う。鯖江の眼鏡は壊れるようになっているんだ」
「え、どういうこと?」
和司は眼鏡をはずした。そして、リムとテンプルを繋ぐ蝶番を紗英に示す。和司の顔が紗英に近づく。
「鯖江では、テンプルの太さによって蝶番を変えている。これは七番蝶番といって、雄雌で合計七枚の部品でできている」
「一枚一枚がとても薄いのね」
「だから強い力が加わると壊れる。これは壊れることで目を保護するための工夫なんだ。そして、壊れることが前提だから、鯖江には修理の部品も揃っている。フレームだってそうだ。磨き直せばピカピカになる素材が使われている」
「それなら、あの大切な眼鏡は治ったの」
和司の顔がぱっと華やぐ。
「もちろんじゃないか。鯖江の眼鏡は、壊れても治せることに意味がある。持ち主に治す気があれば、何回でも、いくらでも」
少し間が開いた。
いまなら、和司の言葉が理解できる。紗英は壊れることを恐れ過ぎていた。大事なのは、壊さないことではない。壊れたとしても、治す勇気を持つことだ。
和司は、トレードマークの眼鏡をかけなおした。いつもの顔、見なれた顔、元通りの顔が、そこにある。
次に治すのは、私の番だ。紗英は思いっきり頭を下げた。
「ごめんなさい。和司の携帯を勝手に見たことも、私の誤解で酷いことを言ったことも、大切な眼鏡を壊したことも」
「あっ、先に言われた。おれから謝ろうと思っていたのに」
「なんで、和司が謝ることないじゃない」
「だって、紗英が後ろを向いたとき、追いかけていれば一カ月もお互いに悲しい思いをすることが無かったじゃない」
和司のやさしさに、紗英の目から涙があふれる。
「あのときは、壊れたものを治せる自信がなかった。けど、完璧に修理された鯖江の眼鏡が戻ってきたのを見て、ようやく勇気が湧いてきた。だから謝る。いままで待たせて、ゴメン」
「バカ。そんなこと言わないでよ」
紗英は和司の胸を叩いた。今回はゆっくりと、そして優しく。和司の胸は厚く、筋肉質なのに柔らかかった。
「いままで、ぼくは恐れていた。壊れたら二度と元に戻せないと。けど、いまなら自信をもってプロポーズできる。紗英さん、結婚してください」
和司はスーツの内ポケットから、紫色の小箱を取り出した。和司は両手で包み込むようにして小箱を開ける。そこには澄んだ青色の宝石があしらわれた指輪が輝いている。
「おれが扱っているラピスラズリの指輪。結果的に、二人を後押ししてくれた瑠璃係長にちなんで」
「もう誤解をしないように、という私への自戒の念も込めてね」
和司は笑った。
「誤解してもいいんだ。壊れたらまた、治せばいいんだから」
「けど、壊れないように大切にするのが一番でしょ」
和司は小さくうなずいた。
紗英は指輪を受け取ると、左手の薬指に嵌めた。和司が選んでくれたラピスラズリは、街灯の光を受けて、二人を祝福するかのように青色に輝き続けていた。
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2025年10月06日
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